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5つの東村

2006年03月05日

平成の大合併前、群馬県には3つの東村があったことは割と有名です。勢多郡東村、吾妻郡東村、佐波郡東村、地元では区別するため郡名を頭につけて、勢多東村、吾妻東村、佐波東村などと呼ばれていたようです。

その3つの東村も2006/03/27、勢多東村、吾妻東村がそれぞれ合併することによってすべて消滅します。しかし、ご存知でしょうか。群馬県にはかつて5つの東村が存在したことを。

以下は5つの東村並立最後の瞬間です。さて、東村を5つ見つけられるでしょうか。図はパラパラ地図使用サイズから縮小しています。クリックで元のサイズに拡大します。

群馬県1951/04/01

図1:群馬県1951/04/01〜1954/03/31

ウォーリーを探せではありませんが、5つの東村見つかったでしょうか。正解は以下の図で示しています。

5つの東村

図2:群馬県1951/04/01〜1954/03/31、5つの東村はここだ!

5つあった東村のうち群馬郡、利根郡の東村は昭和の大合併の荒波に飲み込まれ、消滅しました。
○群馬郡東村:1954/04/01前橋市に編入
○利根郡東村:1956/09/30赤城根村と新設合併、利根村(現・沼田市)となる

昭和の大合併を乗り越えた3つの東村。しかし、平成の大合併を迎え、とうとう消滅することになりました。
○佐波郡東村:2005/01/01伊勢崎市他2町と新設合併、伊勢崎市となる
○勢多郡東村:2006/03/27笠懸町、大間々町と新設合併市制、みどり市となる
○吾妻郡東村:2006/03/27吾妻町と新設合併、東吾妻町(ひがしあがつままち)となる

5つの東村は1889/04/01町村制施行時、明治の大合併とともに誕生し、それから消滅の瞬間まで一切合併はしませんでした。地図による変遷はパラパラ地図群馬県完全版をご覧ください。

さて、なぜ群馬県にはこんなにも東村が存在していたのでしょうか。群馬地名研究会によると日本武尊の伝説に由来するとのことです。

命名が相次いだ理由として、群馬地名研究会が指摘するのが、日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説。日本書紀では日本武尊が東征の帰路、今の群馬県内の峠で「アズマハヤ(わが妻よ)」とつぶやき、妻をいとおしんだとされる。「東は『日いずる所』を意味する。明るく上昇するイメージも重ねたのだろう」という。
(読売新聞2006/03/04付『地図から消える群馬名物「東村」、平成の大合併で』より)

これが由来ならば、吾妻と東は同一の由来であるといえると思います。あるいは東の由来が吾妻であるということなのでしょうか。そうであるならば、吾妻郡東村と吾妻郡吾妻町が隣り合っていること、両町村が合併して「東吾妻町」となることはとても面白いと思います。

ところで5つの東村と書きましたが、「あずまむら」は4つです。ではあと一つはなんでしょうか。実は吾妻東村だけ「あづまむら」を名乗っているのです。


参考サイト
○都道府県市区町村 落書き帳アーカイブズ『同一府県内の同じ表記の自治体はどう区別するのか
○読売新聞2006/03/04付『地図から消える群馬名物「東村」、平成の大合併で


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